危機感が無いという危機、本当の馬鹿は鬱の自覚すら無い

焦りが無いというのは、全くもって危険である。悪習慣に身を委ね、現実から逃げ、「クソニート」を演じるのはさぞかし気が楽だろう。私は、良くも悪くも、特に悪くも「習慣」というものから抜け出せない。当たり前の、やるべきハードルが下がりに下がり、それに反比例してすべきで無い事を続ける。

学校も、バイトも、課題も、今までやってこなかった。だからやらない。やれない。そして今日も、昨日も、平然とした顔でそこに僅かな疑問の余地はあるかもしれないが、ほぼ疑いなくブロンを飲む。一瓶。今日は気分を変えてフステノンにした。そして元気を前借りして、頭のおかしい独りカラオケだ。ブロンを飲んでヒトカラ。もう何百回としているだろう。おかげで歌が上手くなった。調子が良ければ92点ほど出る。

私は二極思考だ。躁鬱だ。0、100の、全てを放棄する完璧主義だ。完璧なんて無い。完璧である必要も無い。人生は80点くらいで良いのだ。分かっている。だが100に達さないとみると、全てがどうでもよくなる。そんな私が平均を超え、カラオケで90点台を出すのだ。ブロンによる、コデインの自己狂酔、エフェドリンのアッパー、そしてやたら褒めてくれるジョイサウンド。これが辞められる訳が無い。

私は自分が大好きで、自己評価が高く、そして吐き気がする程大嫌いだ。気持ち悪い。

もうすぐ学校が始まる。夏の終わりだ。私はこんな21年間を想像していなかった。違う。こんなんじゃない。

私は狂っている。

当たり前に狂っている。

神聖かまってちゃんの、あの夏休みが来る。22、23歳と。

私はどのように息をしているのだろうか。

今は危機感を抱かない、鬱にロックを響かせたい、破滅衝動の、死にたい季節、21歳の夏の終わりだ。