幸も不幸もストローク不足

結局人間は独りでは生きられないのか。

どっかの誰かが言った。

「幸せは、共有する事で初めて幸せになる」みたいな事を。

不幸や辛い事にもこれは当てはまりそうだ。ただし共有する事で不幸が増す訳では無い。

その辛さを誰かと共有出来れば、多少気持ちは楽になる。

 

僕には幸であれ不幸であれ、共有出来る相手が居ない。日々過ごす中で絶対的に溜まる毒を感じながらも、吐き出す場所が見つからない。

僕の場合、辛い事の方が多いのでそれを共有したいのだが、僕の不幸話なんて聞きたく無いだろうと思ってしまう。

 

多分昔からそうだった。中学生の頃サッカー部でイジメを受けていた。なのでそれが辛いんだ、辞めたいんだと母に相談したが、母は「それは本当にイジメなの?」みたいな返しをした。確かに親からして子どもの学校での様子は不透明だろう。

今大きくなって振り返ると、それがイジメに値するレベルだと確信する。

けれど唯一相談した母にそう言われたので、当時はイジメじゃないと思うしかなかった。つまり状況は何も変わらず、耐えるだけだ。

 

中学のいじめは、時が解決した。中学生の頃の記憶は余り無い。ストレスがかかり過ぎていたのだろう。

 

そんな状況が嫌で、環境が変わる高校に望みを託した。高校入学してすぐの頃は順調だった。4月ごろの体育大会でリレーのアンカーを務め(脚はそれなりに早かったので)女子も男子も応援してくれた。ゴール直前に目の前に女の子が出てきてその子にスライディングして、腕をギャン擦り剥いたけど皆心配してくれた。

 

5月にはクラスのヒロイン、美女2人が「何故か」家に遊びに来た。後で知った事だが、その遊びに来た女子の片方にはボーイフレンドが居た。仮にAちゃんとしよう。

恐らくAちゃんはその彼氏と倦怠期の間、高校入学新鮮な勢いで俺の所に来たのだと思う。

 

で、ここから意味不明なのだがそのAちゃんは急に俺を露骨に避けるようになった。

クラスの女子(スクールカースト的に一軍)にも嫌われ始めた。男子も嫌い始めた(男子は多分俺が女子と仲良くしてたのをよく思ってなかった。俺も最初女子とばっか話してたので男子との繋がりが無かった)

 

男子が俺を嫌うのは分かる。ただ女子が意味分からんかった。合理的に考えると、そのAちゃんは俺に気が合ったが、彼氏さんと復縁したので俺は用済みになり、忘れる為に嫌いになったのか。それか彼氏がいるくせに俺に気を寄せてた事を誰かに咎められた結果、俺を悪人にしたのか。(あいつが誘惑した!)

そしてそのような噂をクラスの女子のスクールカースト一軍にも広めたのだと思う。だって俺まじで悪いことしてないもんWWW

 

そんなこんなで高校一年生はクラスに友達が1人、クソみたいだった。

けどこれは余りに不条理極まりないので、俺は高校2年から反撃を開始した。

一年の頃クラスに居場所が無いので、他のクラスの奴と仲良くなった。そこで知り合った奴の中に、イケメンでおもろい明らかな一軍の男子がいた。ただ彼は一軍のポテンシャルを持ちながら、無所属で遊牧民のようだった。

 

高2からそいつとかなり仲良くなった。

そいつも俺の事を面白いと思ってくれて、そいつとなら何でも出来る気がした。

文化祭や体育祭はそいつと行動を共にして、バカをたくさんやった。その頃そいつは一軍達とも繋がり始めた。でも行事の時は俺を選んでくれて、嬉しかった。

高2の俺は一軍では無い。無所属だ。スクールカーストを破壊しようとしてた。学校内外で奇行を繰り返した。毎日面白い事をしてやろうと思って、ワクワクして学校に登校した。

面白ければ、一軍になれるのだ。いや、所属する安心感すらも要らないのだ。

 

毎年年越しは友達と俺の家で過ごす。

高1の時はクラスに唯一の友達と、中学からの友達と俺の3人でしっぽり越した。

高2の年越しは7人ほどになった。↑の面白イケメン含め、俺が本当に一緒に居て楽しいと思えるメンバーで年を越した。

 

高3に入ると、高1の時俺をハブっていた元同じクラスの女子、男子と同じクラスになった。

そのクラスには面白イケメンも居た。

最初のうちは馴染めなかった。高1のハブり男子達が沢山いたからだ。そいつらと同じグループの遠足とか地獄だった。

その遠足は私服参加で家から1時間かけて江ノ島に来たが、被害妄想が激しくなり自分の服装が恥ずかしくなった。ので態々往復2時間かけて家に帰り着替え、また江ノ島に戻ってきた(よくサボらなかったな)

 

ハブり男子達は昔よりマシになっていたが、それでも最悪の居心地だった。

なので高3の初めは何日か休んだりもした。

けど俺は今まで努力した面白さを見せつける。面白イケメンの援護もあり、俺は紛れもなくそのクラスの男子一軍に属する。

そしてそこまで行くと、高1の頃人伝のくだらん情報を信じて俺をハブったり文句をどうこう言ってきた奴らも掌を返し、俺に寄ってきた。

不条理をかます奴はいなくなった。

でも俺はその復讐で満足した。掌返しした奴らを責める事はしなかった。それぐらい心にゆとりが持てていた。彼らを許せた。

 

自分の力で状況を一変させた事が最高に心地良かった。自分のコミュニケーション能力は高いんだと確信した。

独りでやっていけると。

 

大学に入った。服飾の大学。素晴らしい日々。自分を表現する事が好きで、高校時代もそれで最高の日々を掴み取った。

今度は服飾というツールをもっと強化したい。

 

そこで人生最大の挫折が生じた。

ミシンで服を作る授業だ。ADHDの僕は先生の話を聞いてもちんぷんかんぷん、忘れ物も多い。その大学の授業はクラス単位で受けていた訳だが、40人ほどのクラスはほぼ全員女子であった。男子は僕含めて2人。

僕は自尊心が傷付く事に恐怖を覚える。

女の先生が居た。僕がよくミスをするので、クラスの女子の前で屈辱的な説教をされた。

その女がとどめを刺した。

それまで僕は問題が生じても自分で解決して来た。けど今回の問題は解決出来ない。その頃自分がADHDだとは知らなかったし、疑いもしなかった。だからなぜ出来ないのか分からないまま、大学一年の夏に酷い鬱になった。

 

今でもその女は許せない。きっとあの女は「強い側」の人間だろう。弱者の気持ちが分からない人。じゃなきゃあんな酷い仕打ちや言い方は有り得ない。

精神疾患についても全くの無知だろう。俺に対してADHDを疑うでもなく、ただ叱責するだけ。

個人的な考えとして、教育者で有る以上はそれを疑うべきである。出来ないから出来ない訳では無い。必ず出来ない理由が有る。

精神疾患の可能性を頭に入れずして、生徒を正しい道に導く事は不可能だ。

 

そういう挫折、そしてそれまでの人生、人に相談する癖が無かったので、仕舞い込んでしまう。

12月ごろになってようやく、外食先で親に泣きながら伝えた記憶がある。「もしかしたら自分は精神疾患持ちかも知れない」と。

ここで泣いている理由は恐らく、俺が学校に行かない事だけを責めた親が背景にありそうだ。

自分の辛さが伝わらないから、理解されないから、態々外食、周りに人がいる中で泣きながら伝えたのだと思う。辛さのアピール。

 

もうその頃の記憶も薄れてきたが、どれだけ辛かったのだろうか。

そう、知らない辛さを知って、勇気を持ってそれを相談しても理解されない辛さ哀しさ。

 

その頃は特に自傷が酷かった気がする。自分から親に見せたりはしなかったけど、実は見て欲しかったのか。こんなに傷付いてるんだよ?って。

 

もうそこからは最悪。思い出したく無い。本当に最悪。家族との最悪の時間。特に母親との信じられない確執。

もう辛すぎて嫌だ。

今は関係はある程度回復した。普通に話す程度に。母との関係が最悪な時、父は味方だった。

だが今は父との関係もあまり良くない。

いやと言うか、この最悪の過去は絶対消えない。消えてない。

家族からして俺は基本的にゴミ人間で有る。そういう前提。ヤク中の迷惑しかかけないゴミ。

生ゴミをいくら味付けした所で絶対食えない。素材が死んでる。

 

まず一つ、俺が元気そうにしているのはおかしい。そもそもクズが幸せそうにする権利は無いし、クズが元気なのは薬をやっている時だけ。薬っていうのは薬。薬のこと。この世の薬。

 

二つ、俺が元気で無いのはおかしい。

クズはやるべき事をやれ。甘えるな。

 

どっちだよ