自傷への衝動、衝動の自傷

最近長らく自傷行為はしていない。

最後にしたのは確か去年の冬ごろ。

ヒモで左腕を縛り、ベランダで肘の内側を切った。力は入れなかったが血が噴水の様に噴き出した。顔のところまで血が飛んできて、温かさを感じた。ベランダに血溜まりが出来る程の出血でかなり焦った。

 

その前は確か包丁を使った。朝、家には母が居たが目を忍んでキッチンで自分の腕に包丁をブッ刺した。

しかもその日は警察の方が家に来た。数時間なんやかんや有って、警察の車でお話ししてた時、何か怒りの糸がプツンと切れた。その勢いで今朝の傷跡をエグると車内で血が噴き出した。よって家に帰された。

 

それが最後らへん。リスカは後先考えずやる心地よさも有る。やってはいけない事をやる感覚。

でも流石に傷跡が目立ち過ぎるので、自傷行為はパタッと辞めた。

 

けれど最近ちょっとやりたくなってきている。

と言うのも、昔は常にリスカをしていた為、それが安定剤の役割を果たしていたのでは無いかと思ったのだ。

その確認をしたくなる程、リスカの感覚を忘れた。今やれば、気持ちは楽になるのか?と感じる。

ただそれが問題解決には絶対繋がらない事は分かる。ただの置き換えである。

ただ一時的で有ってもやってみたいーーという想像がふつふつと湧いている。

夏はうつが酷くなる。でも多分夏にはやらない。自傷跡が目立つ事と夏が容易に結びつくから。

冬は夏よりかは気持ちが楽になる。けど腕が隠れるからしてしまうかもしれない。

 

基本計画的なリスカは無い。それではあまり意味が無い。

自分を騙し、殺し続けている。生きる為に死んでいく。

まだ大丈夫だよ。偉いよ。頑張ろうね。明後日には友達に会おうね。少しでもね。

 

幸も不幸もストローク不足

結局人間は独りでは生きられないのか。

どっかの誰かが言った。

「幸せは、共有する事で初めて幸せになる」みたいな事を。

不幸や辛い事にもこれは当てはまりそうだ。ただし共有する事で不幸が増す訳では無い。

その辛さを誰かと共有出来れば、多少気持ちは楽になる。

 

僕には幸であれ不幸であれ、共有出来る相手が居ない。日々過ごす中で絶対的に溜まる毒を感じながらも、吐き出す場所が見つからない。

僕の場合、辛い事の方が多いのでそれを共有したいのだが、僕の不幸話なんて聞きたく無いだろうと思ってしまう。

 

多分昔からそうだった。中学生の頃サッカー部でイジメを受けていた。なのでそれが辛いんだ、辞めたいんだと母に相談したが、母は「それは本当にイジメなの?」みたいな返しをした。確かに親からして子どもの学校での様子は不透明だろう。

今大きくなって振り返ると、それがイジメに値するレベルだと確信する。

けれど唯一相談した母にそう言われたので、当時はイジメじゃないと思うしかなかった。つまり状況は何も変わらず、耐えるだけだ。

 

中学のいじめは、時が解決した。中学生の頃の記憶は余り無い。ストレスがかかり過ぎていたのだろう。

 

そんな状況が嫌で、環境が変わる高校に望みを託した。高校入学してすぐの頃は順調だった。4月ごろの体育大会でリレーのアンカーを務め(脚はそれなりに早かったので)女子も男子も応援してくれた。ゴール直前に目の前に女の子が出てきてその子にスライディングして、腕をギャン擦り剥いたけど皆心配してくれた。

 

5月にはクラスのヒロイン、美女2人が「何故か」家に遊びに来た。後で知った事だが、その遊びに来た女子の片方にはボーイフレンドが居た。仮にAちゃんとしよう。

恐らくAちゃんはその彼氏と倦怠期の間、高校入学新鮮な勢いで俺の所に来たのだと思う。

 

で、ここから意味不明なのだがそのAちゃんは急に俺を露骨に避けるようになった。

クラスの女子(スクールカースト的に一軍)にも嫌われ始めた。男子も嫌い始めた(男子は多分俺が女子と仲良くしてたのをよく思ってなかった。俺も最初女子とばっか話してたので男子との繋がりが無かった)

 

男子が俺を嫌うのは分かる。ただ女子が意味分からんかった。合理的に考えると、そのAちゃんは俺に気が合ったが、彼氏さんと復縁したので俺は用済みになり、忘れる為に嫌いになったのか。それか彼氏がいるくせに俺に気を寄せてた事を誰かに咎められた結果、俺を悪人にしたのか。(あいつが誘惑した!)

そしてそのような噂をクラスの女子のスクールカースト一軍にも広めたのだと思う。だって俺まじで悪いことしてないもんWWW

 

そんなこんなで高校一年生はクラスに友達が1人、クソみたいだった。

けどこれは余りに不条理極まりないので、俺は高校2年から反撃を開始した。

一年の頃クラスに居場所が無いので、他のクラスの奴と仲良くなった。そこで知り合った奴の中に、イケメンでおもろい明らかな一軍の男子がいた。ただ彼は一軍のポテンシャルを持ちながら、無所属で遊牧民のようだった。

 

高2からそいつとかなり仲良くなった。

そいつも俺の事を面白いと思ってくれて、そいつとなら何でも出来る気がした。

文化祭や体育祭はそいつと行動を共にして、バカをたくさんやった。その頃そいつは一軍達とも繋がり始めた。でも行事の時は俺を選んでくれて、嬉しかった。

高2の俺は一軍では無い。無所属だ。スクールカーストを破壊しようとしてた。学校内外で奇行を繰り返した。毎日面白い事をしてやろうと思って、ワクワクして学校に登校した。

面白ければ、一軍になれるのだ。いや、所属する安心感すらも要らないのだ。

 

毎年年越しは友達と俺の家で過ごす。

高1の時はクラスに唯一の友達と、中学からの友達と俺の3人でしっぽり越した。

高2の年越しは7人ほどになった。↑の面白イケメン含め、俺が本当に一緒に居て楽しいと思えるメンバーで年を越した。

 

高3に入ると、高1の時俺をハブっていた元同じクラスの女子、男子と同じクラスになった。

そのクラスには面白イケメンも居た。

最初のうちは馴染めなかった。高1のハブり男子達が沢山いたからだ。そいつらと同じグループの遠足とか地獄だった。

その遠足は私服参加で家から1時間かけて江ノ島に来たが、被害妄想が激しくなり自分の服装が恥ずかしくなった。ので態々往復2時間かけて家に帰り着替え、また江ノ島に戻ってきた(よくサボらなかったな)

 

ハブり男子達は昔よりマシになっていたが、それでも最悪の居心地だった。

なので高3の初めは何日か休んだりもした。

けど俺は今まで努力した面白さを見せつける。面白イケメンの援護もあり、俺は紛れもなくそのクラスの男子一軍に属する。

そしてそこまで行くと、高1の頃人伝のくだらん情報を信じて俺をハブったり文句をどうこう言ってきた奴らも掌を返し、俺に寄ってきた。

不条理をかます奴はいなくなった。

でも俺はその復讐で満足した。掌返しした奴らを責める事はしなかった。それぐらい心にゆとりが持てていた。彼らを許せた。

 

自分の力で状況を一変させた事が最高に心地良かった。自分のコミュニケーション能力は高いんだと確信した。

独りでやっていけると。

 

大学に入った。服飾の大学。素晴らしい日々。自分を表現する事が好きで、高校時代もそれで最高の日々を掴み取った。

今度は服飾というツールをもっと強化したい。

 

そこで人生最大の挫折が生じた。

ミシンで服を作る授業だ。ADHDの僕は先生の話を聞いてもちんぷんかんぷん、忘れ物も多い。その大学の授業はクラス単位で受けていた訳だが、40人ほどのクラスはほぼ全員女子であった。男子は僕含めて2人。

僕は自尊心が傷付く事に恐怖を覚える。

女の先生が居た。僕がよくミスをするので、クラスの女子の前で屈辱的な説教をされた。

その女がとどめを刺した。

それまで僕は問題が生じても自分で解決して来た。けど今回の問題は解決出来ない。その頃自分がADHDだとは知らなかったし、疑いもしなかった。だからなぜ出来ないのか分からないまま、大学一年の夏に酷い鬱になった。

 

今でもその女は許せない。きっとあの女は「強い側」の人間だろう。弱者の気持ちが分からない人。じゃなきゃあんな酷い仕打ちや言い方は有り得ない。

精神疾患についても全くの無知だろう。俺に対してADHDを疑うでもなく、ただ叱責するだけ。

個人的な考えとして、教育者で有る以上はそれを疑うべきである。出来ないから出来ない訳では無い。必ず出来ない理由が有る。

精神疾患の可能性を頭に入れずして、生徒を正しい道に導く事は不可能だ。

 

そういう挫折、そしてそれまでの人生、人に相談する癖が無かったので、仕舞い込んでしまう。

12月ごろになってようやく、外食先で親に泣きながら伝えた記憶がある。「もしかしたら自分は精神疾患持ちかも知れない」と。

ここで泣いている理由は恐らく、俺が学校に行かない事だけを責めた親が背景にありそうだ。

自分の辛さが伝わらないから、理解されないから、態々外食、周りに人がいる中で泣きながら伝えたのだと思う。辛さのアピール。

 

もうその頃の記憶も薄れてきたが、どれだけ辛かったのだろうか。

そう、知らない辛さを知って、勇気を持ってそれを相談しても理解されない辛さ哀しさ。

 

その頃は特に自傷が酷かった気がする。自分から親に見せたりはしなかったけど、実は見て欲しかったのか。こんなに傷付いてるんだよ?って。

 

もうそこからは最悪。思い出したく無い。本当に最悪。家族との最悪の時間。特に母親との信じられない確執。

もう辛すぎて嫌だ。

今は関係はある程度回復した。普通に話す程度に。母との関係が最悪な時、父は味方だった。

だが今は父との関係もあまり良くない。

いやと言うか、この最悪の過去は絶対消えない。消えてない。

家族からして俺は基本的にゴミ人間で有る。そういう前提。ヤク中の迷惑しかかけないゴミ。

生ゴミをいくら味付けした所で絶対食えない。素材が死んでる。

 

まず一つ、俺が元気そうにしているのはおかしい。そもそもクズが幸せそうにする権利は無いし、クズが元気なのは薬をやっている時だけ。薬っていうのは薬。薬のこと。この世の薬。

 

二つ、俺が元気で無いのはおかしい。

クズはやるべき事をやれ。甘えるな。

 

どっちだよ

 

流行としてのファッション

 

服を纏う。装いというモノは遥か昔からヒトと関わりが有り、強いて言うならば衣服を身に付ける事が人を人たらしめてるとも言えるだろう。

 

そもそも全裸でもオッケー^_^だったヒトが何故、衣服を纏うようになったのか。一説には急所(チン棒)を守る為だとか、狩った動物の毛皮によって優位性を示す為だとか諸説あるらしい。

「それが生存に必要だから」服を着るようになったんですね。

 

今では装いの概念は「ファッション」として、着飾る事で個々人のアイデンティティを確立するツールに変化しています。

しかし現代におけるファッションは自由であるが故に不自由で有りそして必ずしも必要なモノでも無くなっています。

 

そこで仕事をしているのが「流行」です。

流行は普遍化と差異化という相反する欲求を同時に可能にします。

 

流行に乗る事で安心感を得る、同一化

流行に「乗らない」事で安心感を得る、差異化

 

NEW STYLEな奇抜な装いも一般に受容されるとやがては普遍的な装いとして社会に認知されスタンダードとなります。

ファッションに限定されず全ては何かの模倣であり、上記のスタンダード即ちファッションの選択肢が増えればそれに伴う模倣により新たな流行が生まれます。

 

私は流行には乗らずにファッションを楽しみたい人間なので、装いのレパートリーが増える事で模倣ができる(模倣×模倣=オリジナル)

のは嬉しい限りですが、そうでは無く流行に乗る事で安心したい人々は今後選択肢が増えていくと自己同一性が不安定化してしまうのでしょうか?

 

それとも逆に流行という概念が薄れ今より遥かに個々人のアイデンティティは差異化され、お互いの多様性を認め合える社会になるのか?

 

私は後者を夢見る。街を歩けば誰もがファッションを楽しんでいる世界を。

 

ウジ虫さんの有用性

 

皆さんウジ虫が湧くのを生で見た事は有りますか?私は部屋にゴミを溜めるのが趣味なのでウジに遭遇してもおかしくないですが、幸運な事にまだウジ虫さんには出逢っていません。

 

ウジ虫は「湧く」と表現します。動物の死骸にあっという間にウジが来る様を見た昔の人々は死骸からウジが生まれたと思っていたようです。つまり何も無い所から瞬間的に自然発生する様子から「ウジが湧く」と表現したそうです。

 

現代の常識からすれば んな訳ねーわ!と思いますが、かつてのヨーロッパでは生物の自然発生説は一般的に信じられていたそうで

1668年にイタリアのフランチェスコ・レディという方が発表した実験が自然発生説を否定する走りになったようですってWikiに書いてあった

(結構最近に感じちゃう)

 

実際は腐った瞬間にハエが超音速で卵をブリブリ産みつけウジ虫がモリモリする訳ですが、非常に嫌悪感を覚えますよね。それでも頑張って彼等の良い部分を見つけてきました。

 

英語でウジ虫をマゴット(Maggot)と言い、マゴットセラピー(Maggot therapy)なる物が有るそうです。ウジ虫療法ですね。

 

ご存知の通りウジ虫さんは腐って死んだ組織を食べます。この時ウジは肉を直接噛みちぎってる訳ではなく、タンパク質分解酵素等が含まれる分泌液で死んだ組織を溶かしながら食べています

(思ったんですが腐肉に群がるウジ虫をゼラチンで固めてマゴットゼリーを作ろうと思っても生のパイナップルみたいにゼラチンは固まらないんでしょうか...あとお肉は柔らかくなるんでしょうか...)

 

さらにこの分泌液には塩基性であるアンモニア化合物や炭酸カルシウムなども含まれており、これらは様々な病原菌を殺菌する抗菌物質であります(分泌する理由としては壊死物質の栄養素を細菌に取られる事を防ぐ為らしい)

 

そう!マゴットセラピーとはウジ虫が選択的に腐肉だけを可食し尚且つ抗菌してくれる為、麻酔無しで壊死した組織の除去が可能という治療法なのです!更に禁忌症例や重篤な副作用は無く、その他の治療とも併用可能!!(勿論使用するウジは無菌状態で繁殖させたマゴットセラピー専用のウジだよ!)

 

どうですか!ウジ虫さんにも良い所はあるんです!これでウジ虫に対する皆さんの見方も変化したのでは無いでしょうか!

 

ちなみにデメリットは此方になります

 

・患者によっては蛆に対する強い忌避感のため使用できない

・治療中にアンモニア臭などの腐敗臭を発生することがある

・患部を蛆が這いまわるために患者によっては違和感や痛みをともなう場合がある

・血流障害をともなう皮膚潰瘍に対する効果は低い

 

ダメじゃん

睡眠薬を飲んで記憶喪失した話

私はWAISというIQを測る知能検査を受け「ADHDぽいね!」という結果を貰った。

(ADHDに限らず精神疾患の診断は確定が難しく、あくまで可能性の問題だが参考までに私の結果を載せておきます。ちなみに簡易的な説明としてIQの平均は100で、標準偏差は15です)

 

言語理解 126     知覚推理118 

ワーキングメモリー109   処理速度93

           全検査IQ116

(全検査は上記の数値の平均ではなく他の数値も合わせた平均です)

 

こんな感じで処理が追いつかないので頭の中で渋滞発生してる訳ですね。それでADHDと上手く付き合っていく為にストラテラから始まり今ではインチュニブとコンサータを処方されています(正直コンサータしか効いてる気がしない...)

 

そんでコンサータは覚醒するし元々寝付き悪いので色々睡眠薬も出てて、そん中にマイスリーっていう飲んで15分くらいでスヤァ出来る素晴らしい入眠剤がありまして

 

ただその日は一錠飲んでも寝れなくて、あまり宜しくないですが2錠追い焚きしたんですね。そこでベッドに入れば良かったものの、何故か私はお風呂に行きすね毛を剃り出したんですね。それは辛うじて覚えてます。そこから記憶がプツンーー

 

朝起きて鏡を見ると毛量が減ってました(すね毛じゃなくて頭のね)

鏡で自分の頭を見てようやく(そういえばおぼろげだが髪を切ったような...)と思い出しまして、それを裏付けるハサミや髪の毛が自室に置いてありました。

 

面倒臭がりな私は9ヶ月程髪を放置していましたが、とても上手く散髪出来ていてすげえなと思いました。笑い話です。薬剤性健忘は初めてだったので(笑)

 

ただ過去にパニックによるものか何なのか全く分からない健忘が有りまして、その時は外出していたんですが何処かも分からない場所で吐いて、いつもの帰り道なのに帰り方が分からず、Googleマップを見ても理解出来ず、ようやく自分の部屋で目覚めた時は辺り一面血だらけで本当に怖かったです(外傷が無いのも逆に怖かった)

 

自分をコントロール出来ないってとても怖いですよね。皆さんも健康には気を付けましょう(ちなみに煙草を吸いながら文字を打っています)

「無音」という恐怖

ついさっきまでは、私は普通だった。洗面所でYouTubeを流しながら普通に顔面を作っていた。私の家族構成は父、母、姉そして自分の4人で父親は単身赴任、中国の方に住んでいる。それ以外の3人で実家に住んでいるが、ついさっきまでは姉も母も出かけていて家には私ひとりだった。誰も居ないのが辛い時もあるが今回は違った。母が帰ってきた。犬の毛を整えた帰り、まだ普通の私も普通に「おかえりー」と

 

そこら辺からパニックになり始めた。母親は「ただいま」と言ったらしいがついさっきの事なのに覚えていない。

私は後ろめたく、とてもビクビクする時がある。周りで起きる出来事、特に音に関して敏感になる。全ての音が私を責めている様に感じるので、部屋の扉を少し開けて母親の音を聴いてみた。無音だった。母は家ではいつも動画や音楽を流したり姉と会話している。

異常に無音に感じた。パニックなので解らないが被害妄想や強迫観念を打ち消す為に「音」を確認する作業、大抵は自分のことじゃ無いのでホッとするが「無音」というのはその安心が得られないまま自分の内側で被害妄想が膨らんでいくのが恐ろしいのかも知れない。

 

大麻を初めて吸った時、セッティングが悪くバッドになったパラノイア的感覚と少し似てる。

 

大分落ち着いてきた。パニックの感覚はうつとは全く違う事を再認識した。うつは自分が辛い事を噛み締める様な辛さだが、パニックは何が起きているか理解出来ない、非常に抽象的で捉え難い「何か良くないモノ」ぐらいしか分からない。

 

 

パニックになった時は、特有の匂いを感じる気がする。とろけた何かが焼けている様な、きっと気のせいだが、幻聴や幻視があるように「幻臭」というのがあるくらいだから、パニックの当事者に執りパニックの香りは確かに漂っているのだろう

多様性のおはなし

私は高校の頃から自分を表現する身近なツールとしてファッションを楽しんでいた。なので大学も服飾系を選んだ。文化服装学院という服飾専門学校の名前を知ってる方も居るかも知れない。ファッションに携わる人でその名を知らぬ者にはそうそう出会わないが、私は同キャンパス内の大学に進学した。

 

文化は凄い。服に興味が無い人からするとキャンパス内は余りに異質な光景に見えるだろう。新宿にある小さめのキャンパスの為、学部学科専門関係無く交流が行われる。主にファッションと煙草を通してだ。

文化生の喫煙率は非常に高い。特に服ヤクザで構成される文化服装学院、専門生の喫煙率は90%を超える(体感)

煙草はファッションに付随する物だ。

特に改正健康増進法施行前は天国だった。喫煙所は有るけれど「キャンパス内どこで吸ってもまあええで」な程アナーキーだった。バチバチに決めたfashion kids達がそこかしこでヤニを喰らっている。

 

 

というのが文化のほんの一側面だ。「奇抜やナルシズムや煙草で俺イけてるとかクソダサいな」というコメントも有るだろう。

 

 

文化生の良い所を1つ紹介すると、彼らは多様性に関して非常に柔軟で有る。というのもファッションを愛する事でアイデンティティを確立してきた彼らに執って、他人のアイデンティティの否定は、己の自己同一性を揺るがす物と同義だと既に理解しているからだ。

つまり許容される表現の範囲内なら、気に入らない服装の人間を見てもお互いを尊重し不可侵を保たねばならない。勿論それは服に限定されず、人種、性同一性、思想等有りとあらゆる物に適用される。

(許容は他者や自分を傷付けない範囲内で)

 

文化にはファッションに限らず多様な人種、性同一性を持った人間がいるがそれらに対し文化生は無関心で、必要な時だけ関心を持つ。

だから「文化」という場所は自分らしくあれて、居心地が凄く良い。

 

 

しかし哀しい事にネット上では過剰防衛的なアイデンティティの侵害が無限に有る。現実で対面する会話とは全く異なり、ネット上では人の存在を感じ難いのだ。人を感じても尚多様性を認めたり他人の感情に共感し難いなら、殊更ネット上では思いやりを疑うプロセスは存在しない。

頭に浮かんだ言葉がどの様な影響を及ぼすか考える間も無くコメントする。更にネット上では自身の圧倒的間違いを諭されても簡単に逃げる事が出来る。ここで都合の良い合理化(私は絶対正しい)(お前が悪い)やコメントを消して無かった事にする(反省する間も無く)と、その度に認知能力がどんどん歪んでいってしまうだろう。

 

 

 

私はその日「男性 ピアス」と検索でヤフーしていた。私自身(一人称として、私、を選択していますが僕は男です) 左耳に6個ピアスを開けている。

 

あるまとめサイトに辿り着いた。「男性のピアスはかっこいい?何歳まで?」に対する女性へのアンケートまとめらしい(ライターも女性。後にこの人の記事に夢中になる)

 

以下、アンケートの意見を少し紹介させて頂く(笑いを堪えらない様子)

 

 

回答者1「男の人って、普通ピアス開けなくないですか? 人と違うことをしている時点でナルシストだなって思いますけど」(30歳)

 

ライター 「男性のピアスは少数派。なので、ファッションに気を遣っている、人と違うことをしている、という時点でナルシストなのでは?という意見です。」

 

回答者2「大人になってピアスをしていたら、“中2病か!”って思いますね。せめて大学生までにしてほしい」(28歳)

 

回答者3「右耳だけピアスを開けている男性を見ると、“ゲイなんだなー”と思います。ピアスを開けている人は女性的なイメージなので、右耳じゃなくても疑いますね」(27歳)

 

ライター

(女性が左につけるのはレズビアンなんたら〜

女性が両耳に付けるのは普通ですんたら〜)

男性も、両耳につけるということは「特別な意味を持たない」と言われています。が、一部では「バイセクシュアルである」というアピールだという意見もありました。

 

皆さんはこれらを見てどう思いましたか?私はめちゃくちゃ爆笑しました。

確かに自分が知らない事を知る方法なんて知らないですよね。

自身が認知出来る範囲がこの世の全てである!、、なんてソクラテスに殴られますよ。

 

無知の知ハレ。自分の思考に疑問を持たねばなりませんね。

 

修行中の私は考える事が大好きですが、全てに疑問を持ち正しさを求めるので時たま思考が苦痛になります。そこら辺の話はまた今度で。アーーーーー